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短編 雨のちカエル、そして晴れ

  雨のちカエル、そして晴れ
  
 現代社会の荒波にのまれ、勤める会社の忙しさにも慣れてきはじめた7月のある日の休日。
 天気予報通り、雨が降りだしたので、私は折りたたみ傘を取り出した。傘に雨粒があたり、ぽつぽつと軽い音をたてて、柔らかな律動を奏でている。
 人通りの少ない道を歩いていたとき、私はふと思い出した。
 そういえば、こんな時期だったかな。雨が降り出したので、道端で雨宿りをした18歳のあの日。
 
 その年は、高校生活最後の年で、図書館にて受験勉強を終えた私は帰り路を歩いていた。なんだか嫌な雲が空の青さを食らって、今にも降りだしそうなほど暗い曇天模様が広がっていた。あいにくと朝の天気予報を聞き忘れた私は、今日の午後の天気など知らなかった。なので折りたたみ傘もなにも持っていなかった。
 そろそろ来るかなと思って空を見上げた途端に、額に水滴があたった。呆れるほどに良いタイミングだ、と思わず苦笑を漏らした。
 降りだした雨はさほど時間をかけずに強くなってきた。家までの距離はまだある。このままでは全身びしょ濡れどころか、最悪、風邪まで引いてしまうだろう。
 そう思った私は駆け足で近くにあった店先へと飛び込んだ。お店のシャッターは閉まっていて、本日休業の張り紙が寂しく微風に揺れていた。
 鞄の中からハンカチを取り出して、すっかり濡れてしまった髪を軽く叩いていると、どこからともなく喋る声が聞こえてきた。近所の家からだろうか、と思ったためにさして気にもとめないで髪を拭く作業を続ける。

「やあやあ、とうとう降りだして来たもんだねェ」

 今度のその声ははっきりと私の耳にはいってきた。すぐ近くで聞こえたそれに、私は頭を動かして辺りを見回すも、通りを歩く人は誰もいなかった。
 おかしいな。確かに今、ものすごく近くで声が聞こえたはずなのに。
 幻聴というにははっきりと聞こえすぎた声に、私は少しだけ怖さを感じた。ここから逃げ出したいけれど、この雨の中を走って行くというのも、別の意味で勇気がいるだろう。なにせ今私の着る制服は、つい先日クリーニングに出してきたばかりだったからである。母に叱られるのと、実体の見えない幽霊とやらの独り言を聞いているのと、どちらが怖いかと問われたら、前者だと私は迷わず答えるだろう。

「この降りようじゃあ、すぐには止まないだろうねェ」

 また聞こえてきた幽霊の独り言に、私は無視で返すことにした。以前聞いた話だけれど、寝言と幽霊の存在には反応しちゃいけないらしい。恐らくは放っておけば、幽霊とやらもどこかへいってしまうだろう。
 そう思った私はふと左隣を見て、小さく悲鳴をあげてしまった。
 今まで私が見てきた中でも見たことがないくらいの大きなカエルが、じっと佇んでいたのだ。それも、私と同じように雨宿りをしているらしく、雨の降りしきる景色を眺めていた。

「カエルも、雨宿りするんだ……」

 意外な光景を目撃して、私は意識しないうちに独り言を言っていた。しかし直後に、さらに私を驚かせる事態が発生した。

「そりゃ、雨宿りくらいするさァ」

 また、誰かの声がした。しかもそれは、まるで私の独り言に対する返事のように思えた。
 誰もいない周囲を見渡し、今一度カエルへ目を向ける。カエルはお腹の辺りをぷっくり膨らませて、ゲコ、と鳴いた。そして、その大きな口を少しだけ開き、今度は私の見ている前で、その口を動かした。

「人間のお嬢さん、お喋りするカエルが、そんなに珍しいかい?」

 問いかけられて、私は混乱したけれども、不思議と怖いとは思わなかった。幽霊だとか、ああいう妙な類のものが喋っていたのではないと分かったからだろうか。しかしやはり、私の混乱はすぐには解けなかったため、カエルを見つめたまま唖然として、この状況を飲み込もうと精一杯思考を働かせた。

「そんなに驚きなさんなァ、人間のお嬢さんよォ。おれはそんなに怪しいカエルじゃあ、ありやせんからねェ」

 怪しいカエルもなにも、人間の言葉を、しかも日本語を喋る時点でおかしいカエルだと私は思っていた。状況を飲み込むのにじゅうぶんに間を置いて、深呼吸をして、私は自分の頬を叩いた。
 痛い。だからこれは、夢じゃない。それを理解すると、今度はなんだか泣きたくなってきた。どうして日本語を話すカエルがいるのかとか、なんで日本語が喋れるのかとか、色んな疑問が釜のフタを開けたように沸きあがってきて、混乱がさらにひどくなってしまったのである。
 頭を抱えてしゃがみ込み、これはきっと悪い夢なんだと言い聞かせている私に構わず、カエルはまたしても喋りかけてきた。

「どうしたんだい、気分でも悪いのかい?」

 心配の言葉をかけられて、なおも驚いてしまった。
 そっとカエルの方を見るも、カエルはこちらに顔を向けてはおらず、先ほどからずっと通りの方を見ていた。
 人の心情の変化を理解して、さらには心配すらできるカエルがこの世に居ることに、私は少しだけ感心した。そしてそれと同時に、もしかしたら私が知らないだけで、この世には喋ることができる知能数のとても高いカエルや、その他にも、言語能力を持った色々な動物がいるのかもしれない、そんなことを思うようになった。
 恐怖心はなかったものの、僅かに挙動不審気味になっていた私は、おそるおそるカエルに話しかけてみた。

「……あの、あなたは、新型の喋る機能つきのおもちゃなの?」
「そんなわけがあるかい。おれは正真正銘、普通の善良なカエルさァ」

 正真正銘のカエルだったら喋ることができるわけがない、という野暮なツッコミをしたくなったけど、なんだかそのツッコミはあまりにもバカバカしい気がしたので私は黙っていた。
 そういえば、今月は夏祭りに行けないなぁ。
 いまだに止む気配のない雨を眺めながら、私は現実逃避をするようにそのようなことを考えた。小さな水溜りができあがった道には、私以外の人や車は、一切通らない。雨粒にあたり、地面や屋根、木の葉が小さく鳴る音だけがこの場にあった。

「人間のお嬢さんには、たくさんの悩み事がありそうだねェ」

 カエルはそう言って、また、ゲコ、と鳴った。カエルの方を見やって、私は苦笑を漏らした。

「まあ、色々あるよ。勉強が大変だとか、彼氏が欲しいだとか、もっと遊びたいだとかね」

 そう言ってから私は、口をつぐんだ。
 どうして私は見ず知らずの、怪しいカエルなんかに悩み事を打ち明けているんだろう。はたから見たらきっと、いや、間違いなく怪しくて変な人だと思われる。
 周囲に人がいないことを確認している私のそばで、カエルは「へえ」と、うなった。

「そいつァ、なかなか忙しそうだねェ」

 のんびりとそのように言ってきたカエルに、私はなんとなく羨ましさを感じた。だから、少し投げやりになって、自分の内心を口にした。

「君みたいな、楽観的なカエルに生まれたかったよ。毎日、毎日、やれ勉強だの、やれ恋愛だのって考えることが、どんなに大変か。君たちには分からないだろうね」

 自分が言ったことは完全な八つ当たりだと気付くのには、そう時間はかからなかった。
 それまでずっとお腹を膨らませるしかしていなかったカエルが、ちょっと体を動かしてこちらを向いてきた。
 飛び掛ってくるかと思い、反射的に身構えた私に、カエルは静かに、静かに述べてきた。

「お嬢さん、そいつァ、まったくの間違いだよォ」

 先ほどよりもずいぶんと弱い声色になったカエルは、私を見つめたままで続けた。

「おれたちは、確かにお嬢さん方、人間の考えや悩みなんて、分からないさァ。けれどね、おれたちは、お嬢さん方と違って、常に生きる事に必死になっているのさァ。うっかり気を抜いてご覧なさいなァ。ほら、あそこに見えるかい? あの鳥のやろう、隙あれば、おれをとっ捕まえて食っちまおうと、狙っていやがるのさァ」

 体の向きを変えて、カエルが指し示したのは、電信柱の電線にとまっている数羽のカラスだった。私は目があまり良くないけれど、カエルが述べた通り、あのカラスたちは確かにカエルの方を見ているように思えた。

「いつ食われちまうか、その恐怖がよォ、常におれたちの世界にはあるのさァ。だからよォ、お嬢さん。逆に訊ねるけどよォ、お嬢さんには、そんな恐怖を感じて生きる、おれたちのことは、理解できるかい?」
「……ちょっとは分かってるつもりだよ」

 自信はなかったので、小さく返答をすると、カエルはまた、ゲコ、と鳴いた。
 私は、先ほど言ってしまった無神経な八つ当たりの言葉を思い出して、少しだけ罪悪感に苛まれた。人間じゃない生き物は、常に弱肉強食の世界の中で生きているんだ。それなのに私は、彼らのことを馬鹿にしてしまった。
 落ち込んだ私に気付いたらしく、カエルは声色をさっきの調子に戻した。

「そんなにも落ち込まないでおくれよォ、お嬢さん。おれたちよりも賢い人間さんなら、ここは笑い飛ばすのがいいって事が、分かるだろォ?」
「笑えないよ。……さっき私が言った事、訂正するよ。ごめんなさい」
「やめておくれよォ、人間さんがおれたちのようなもんに、頭ァ下げるなんて。お嬢さんは、当たり前のことを思って、当たり前のことを言っただけじゃあないかァ」

 気にしていないと言い、カエルは体の向きをまた変えた。先刻よりも落ち着いてきた雨の降りだけれど、まだやみそうにはない。
 無言になった空間で、私は道にできた水溜りを眺めていた。なにを思うでもなく、ただ、じっと静止していた。
 不意にカエルが声を発した。

「ところでよォ、お嬢さん。人間にはさ、おれたちにない良い部分があって、楽しい出来事を、たくさん経験できるんだろォ?」

 カエルに目を向け、また水溜りを見て、私はちょっとだけ口許の筋肉を緩めた。

「まぁ、そうだね。少なくとも、他の動物に殺される恐怖をいつも感じてなんていないからね」
「いや、いや。そうじゃあなくてよォ、お嬢さん。おれがいつも見ている人間さんはよォ、色々なことを考えながらも、毎日、毎日、楽しそうに笑って暮らしている姿さァ。なにかの機械を耳に当てて、笑ったり、頭を下げて謝ったりしているのを見ているとよォ、なんて楽しそうな日々を、送っているんだろうなァ、そう思うんだよォ」

 カエルが述べる、カエルが見てきたことを聞き、私はじっと考え込んだ。
 彼の見てきた人間社会は、彼から見るととても楽しいものらしい。気持ちは分からなくもないけれど、私は首をかしげるしかできなかった。

「それは、君の理想の人間の世界の話だよ。笑顔ばっかりじゃなくて、実際にはもっと色んなことを考えたり、悩んだり、泣いたり、怒ったりしてるんだよ。人間ってのは、君が思っているよりも、もっと面倒くさい生き物なんだよ」

 人間に憧れるカエルの理想を打ち壊そうとしているようで、私はちょっとだけ、自分はなんて意地悪な人間だろうと思った。けれどカエルは、ゲコ、と鳴くと、「そうかもしれないけどよォ」と、語り始めた。

「それこそが、人間の特権ってやつじゃあないかねェ。おれたちは、お嬢さんたちのように、悲しい気持ちが抱けないし、涙を流す方法もないんだよォ。そりゃ、ときには同族同士の争いが起きて、互いに取っ組み合ったりすることもあるが、怒りのあまりに相手を殺したりなんて、しやしないさァ。人間だけが、同族のもんを殺してしまうのさァ。けれどそれを愚かだとは、思わねェ。喜怒哀楽という言葉はよォ、人間にしか使われない、とても素晴らしい言葉なんだからよォ。それによ、たまには、腹が減った以外のことを、悩んでみたいと、おれは思うよォ」

 素直で偽りのない、とても純粋な言葉だと私は感じた。カエルから目を離して、雨の打ち付ける地面を眺める。
 小雨になってきたとき、カエルは突然前方へと跳んだ。そして、ゲコ、と鳴くと、その場に佇んだ。

「さて、そろそろおれは、帰るとするよォ。お嬢さんと話せてよかった。興味深い話が色々と聞けたからなァ。それじゃあ、元気でやんなァ」

 地面の水を跳ね上げ、カエルは大きく跳躍すると草むらの中へと消えた。
 私はしばらくその草むらを眺めていた。じきに意識がはっきりしてくると、小雨もほとんどやみかけているのに気付いた。
 なんだか本当に、夢のようなひととき、というのを体験した気がする。というか、本当に夢だったのではなかろうか。そう思うも、カエルが居た場所には土の汚れが小さくできていた。

「……私も帰るか」

 ほとんどやみかけている雨を前に、私は鞄の中から携帯電話を取り出した。ディスプレイに映し出された時刻は、午後4時前。確か図書館を出てきたのが2時過ぎだったので、小一時間近くここに居たことになる。けれどあの不思議体験は、一時間程度の出来事だとは思えなかった。
 カエルと喋ったなんて、きっと信じてもらえないし、バカにされるだろうから、誰かに言いふらそうとは思わなかった。 それでも確かに私の記憶には、しっかりと残っていた。

 雨が降る日は思い出す、あのカエルと過ごした不思議なひとときの事を。今あのカエルはどこにいるのか、私ではない違う人間とお話をしているのだろうか。なんて、答えのみえないことばかりを考えながら、私は家路を急いでいた。
 カエルが見ていた理想の人間の世界と、現実の人間世界はかなり違うものだけれど、あのカエルが言っていた人間の特権は、長所でもあり短所でもあるなぁと思えていた。そして、ばからしいけれども、私はあのカエルのお陰で、毎日充実した日々を過ごせるようになっていた。怒ることも泣くことも、こうやって色々な悩みがあることも、全部人間だからこそなのだ。そう思えば、不思議と、悩みがあることは幸せなことなのかもしれない、なんて考えさえも浮かんできた。
 靴先の水を蹴飛ばし、水溜りに映る世界を眺めて、明日もまた、がんばろう。
 雨が降っているけれど、私は、晴れ晴れとした気持ちでそのように思った。

 17.Oct.2007

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