創作作品展示室

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短篇 『舞台裏友情劇』

『舞台裏友情劇』

 県立Y高等学校では、今月末に催される文化祭の準備のために、ここ数日は毎日のように生徒たちが校内を走り回る姿を見かけるようになった。2年C組在籍の柏木 可奈子《かしわぎ かなこ》のクラスでも、今年の出し物である屋台の準備に追われて、朝は早くに学校へ向かい、帰宅時刻は陽が暮れてしまってからということが常になってきていた。
 どこの学年・クラスも全員が、というわけにはいかないが、2年C組と同じように生徒は皆はりきって準備に取り組んでいるし、そんな奮起する生徒の姿を見て、教師たちも滅多なことでは口を出したりしなくなっていた。

「文化祭までもう二週間をきるからね、みんな気合いいれていこう!」

 2年C組のクラス委員長である山本 容子《やまもと ようこ》が大きな声でそのように言うと、クラスにいた級友たちは彼女に負けないくらいの大声で「おう!」と返事をした。それからみんなは各々の役割分担を任されている場所へ向かうため、ぞろぞろと移動を開始した。
 可奈子の役割はクラスの立て看板作りであった。立て看板の大きさは、縦約220センチ、横約100センチと、そこそこに大きなものだ。この看板は文化祭前日になると、校舎へと続く桜並木の道にたてかけられることになり、当日には多くの来賓や一般見学者の目に触れられることとなる。それはクラスの出し物を宣伝するための重要な看板であるため、可奈子たち看板作りグループは一層気合いを入れて取り掛からなければならなかった。
 可奈子が看板作りに必要となる筆記用具と、着色作業時に要るペンキやブラシを棚から取り出したとき、仲の良い級友の一人である金田 美咲《かねだ みさき》が声をかけてきた。

「ペンキは私が持つね」

 美咲はそう言い、可奈子が取り出したばかりのペンキをとった。それらはまだフタが開けられていない新品であるので、持ち運びの際に衣服を汚す心配はなかった。けれどやはり一人で複数のペンキを持つのはたいへんなので、可奈子は棚の上にあった小さめのカラのダンボール箱を美咲のほうへ差し出した。

「ここにいれて持っていこう」
「おっけ。気をつけてね」

 美咲は可奈子が持つダンボール箱の中に、静かにペンキを入れていった。必要な分だけペンキが入りきると、ダンボールは思いのほかずっしりと重たくなった。

「カナ、私が持つよ。貸して」
「ううん。やっぱ美咲が筆記用具もっていってくれるかな。これ重たいから渡すときに落としたりしたら危ないし」
「そう? カナ、大丈夫?」

 心配そうな顔をした美咲に、可奈子は笑顔を向けてやり、「大丈夫」と返事をした。
 可奈子と美咲は3階にある美術準備室へと足を運んだ。本来ならばクラスの立て看板を制作する場所は各クラスの前の廊下のみ、というたいへんに狭い範囲しかないのだが、2年C組のクラス担任が美術担当の先生であったので、可奈子たちのクラスだけは特別に個室をひとつ借りてそこで看板を制作していた。
 二人が美術準備室の扉を開けると、室内にいた人たちがみんなこぞって可奈子たちのほうへ視線を向けた。けれど入室してきたのが同じクラスの、同じ看板作りという役割を担当している生徒二人と見るや、その人たちは興味なさそうに再び喋り始めた。
 同じクラスの女子三人のその反応を見た美咲は、少しいらだった声で彼女たちに声をかけた。

「松本さん、結城さん、酒井さん。先にここに来る前に必要なものを持ってくるの、手伝ってくれれば良かったのに」
「えっ。あぁ、ごめん。いつも金田さんたちが持ってきてくれるからいいかなあって思ってさ」

 悪びれもなくそう答えたのは、結城 真衣《ゆうき まい》だった。一応言葉では謝っているが、彼女の態度には全く反省の色はみられなかった。
 結城 真衣、松本 千佳《まつもと ちか》の二人は可奈子のクラスの中でも特に目立って、あまり良い評判のないクラスメートだった。けれど、そんな二人とよく一緒にいる酒井 朋子《さかい ともこ》のほうは、これといって悪い噂は聞いたことがなかった。なので可奈子は、なぜ酒井が結城たちと一緒にいるのか、ときどき不思議に思うことがあった。
 くっちゃべっている三人組を無視することにしたらしい美咲は、早速制作途中の看板に手をつけ始めた。
 看板にはすでに下絵だけは描かれてあるが、それもまだラフ画程度のものなので、これから線を整えていかなければならない。可奈子と美咲の二人がだした計算では、この下絵自体はもう今日か明日に完成できる予定だ。それから着色作業をはじめて、休日となる土日を挟んで再来週の水曜日――なので文化祭前々日には終わらせられることになっている。もしももっと文化祭の準備にあてられる時間があったなら、予定よりも早い段階で完成できるのだろう。だがあいにくと文化祭終了後にはすぐに中間試験が控えていたり、また可奈子たち2年生には修学旅行が迫っているということもあって、ほとんどのクラスでも時間的な余裕などなかった。
 可奈子と美咲は線画に丁寧な手つきで手を加えていき、少しずつまともな状態にしていった。しかし一方で結城たちは、可奈子たちの手伝いなどすることなく、好き勝手に喋り、携帯電話をいじり、だるそうに椅子に座って可奈子たちの作業を眺めていたりした。
 可奈子は内心で、彼女たちに手伝って欲しいような、別に手伝ってもらわなくてもいいような、そんな複雑な気持ちを抱いていた。仮に結城たちが手伝ってくれたとしたら、きっと予定よりも早くに看板が出来上がることだろう。しかし、いつも好き勝手なことばかりやっている結城たちが自分たちの手伝いをしてくれるとは思えなかったし、なにより元からやる気のない彼女たちと一緒に看板を作りたいという気持ちが可奈子のなかにはもうなかった。
 高校生活はあと一年残っているけれど、高校二年生の文化祭はこれが最後となるのだ。なのにこうして怠慢な態度をとる人たちと一緒になって何かを作り上げるなんて、考えられなかった。まだ少しでも彼女たちにやる気があってくれたのならば話は別だったかもしれない。それを考えると、可奈子は少しだけ自分自身に嫌悪感を抱かざるを得なかった。
 意識を看板だけに集中させ、可奈子はなるたけ丁寧に鉛筆を走らせていた。そうしているうちに、結城たちの耳障りな声は聞こえなくなり、可奈子はこの場に自分一人だけしかいないのだという錯覚に陥りかけた。が、それを遮ったのは下校時刻を告げる鐘の音だった。

「もうあと半分ってところだね。明日くらいで下書きは完成かな?」

 消しゴムのカスをしたじきで扇(あお)いで取り除き、上から見下ろしながら美咲は言った。可奈子も立ち上がって美咲と同じように看板を見下ろしてみた。たこ焼きを作る可愛らしい顔をした男の子と女の子の額には、ねじりハチマキ。絵の上部には『2年C組』の文字。そしてたこ焼き台が描かれた下部には、『安美味たこ焼き』の文字。女の子たちの背景には『寄ってらっしゃい』『買ってらっしゃい』の文字が吹き出し調に描かれてあった。
 今はまだ色がはいっていないのでとても質素な感じだが、これから着色をすれば派手になるだろう。赤と黄色をたくさん使う予定でいるので、可奈子は期待してそのように思った。

「お疲れさま。じゃ、うちら帰るわ」

 先ほどの作業で出た大量の消しゴムのカスを処分するために可奈子たちが塵取りに集めていると、結城と松本、それに酒井はなんてことなく教室から出て行った。結局なんの手伝いもしないで、今日もあの人たちは帰ってしまった。やはりあんな人たちの手を借りる必要はない。可奈子は多少の苛立ちを覚え、口を真一文字に閉ざした。

「このペンキ、ここに置いていってもいいよね。また持っておりるの面倒だし」

 美咲はそう言ってから、ペンキ入りのダンボール箱を邪魔にならない位置へ移動させた。消しゴムのカスをほぼ集め終わった可奈子は、強い力で塵取りをゴミ箱へと振り下ろした。耳に障る鈍い金属音が室内に響いて、しばらく音が余韻を残した。
 ものに八つ当たりをするなんて、あまりにも情けない、と可奈子はすぐに後悔した。

「結城さんたちのことなんてもう気にしないでおけばいいよ」

 可奈子の態度と今の雰囲気で、美咲は可奈子が苛立っているというのを察したらしく、ぽつりとそのように述べた。いまはもう結城たちの姿は見えないが、美咲はじいっと扉のほうを見つめていた。

「たぶん、結城さんたちが手伝ってくれても、作業の進行具合は大して変わらないと思うもん。やる気のない人たちが三人いても、ちゃんと真面目にやってくれる一人には敵わないからね。私たちだけでなんとか完成させよう」
「うん」

 美咲から受けた言葉に、可奈子はこくと頷いた。しかしなぜか、心の中ではすっきりしていなかった。
 さっき自分が思っていたことと矛盾することを、可奈子は考えていた。結城たち含めて、自分たち五人はこの看板作りという大任を任されている。なのに、あの三人は放っておいて、美咲と自分の二人だけで看板を完成させてもいいものなのだろうか。
 せっかく、この2年C組というクラスで知り合った人たちなのに、なんの関係性も持たないまま進級するのだろうか。今年の体育祭のときも結城たちは非協力的な姿勢をとっていたし、彼女たちだけじゃなく、クラスのごく一部の男子生徒だって面倒がっている人もいる。けれど取り分けて結城たちの言動は目だっている。彼女たちは見た目も派手だし、生徒指導によく捕まる常習犯だし、悪い部分で目立つのは当然のことなのかもしれない。それでも可奈子は、なんとなく彼女たちを嫌いになることができなかった。

 それから可奈子と美咲は、予定通り下書きを終わらせ、その週のうちに着色作業へとはいった。結城たちは相変わらずなんの手伝いもせず、ただただ無駄な時間を過ごしていた。
 可奈子は結城たちに対して、何度となく「協力して欲しい」とお願いしてみようかと思った。しかし、やはりいざ行動に移すとなるとなんだか変に緊張してしまうもので、「手伝ってほしい」の一言が、なかなか言えずにいた。

 立て看板完成予定日までもう僅かとなってしまったある日、美咲が部活動のほうに顔をださねばならなくなり、可奈子は一人で美術準備室へと向かった。
 美術準備室へ向かう道で、可奈子はとても焦っていた。なにせ、文化祭までもう残り時間がないというのに着色作業が思っていたより難航してしまい、いまだ半分も塗り終わっていなかったからだ。そして可奈子はなぜこんなにも時間がかかってしまっているのかの原因を、はっきりと分かっていた。
 美術準備室の扉に手をかけ、盛大に開く。音に反応して中にいた結城たちがふっとこちらを見たが、挨拶もなく、彼女たちはまた会話を再開した。
 可奈子はもうためらっている心の余裕などなかった。看板の隣を歩いて行き、結城たちがいる場所へ来ると、一も二もなく話を切り出した。

「話の最中にごめんね。あなたたちにも色塗りを手伝って欲しいの。お願い、協力して。もう時間がないの」

 今まで一度もそんな依頼をされたことがなかったために面を食らったのか、結城たちは口を閉じて可奈子を見つめた。けれど、結城が松本に視線を送ると、松本は首をかしげて肩をすくませた。それから松本が口を開いた。

「別にいいけど、なんか柏木さん必死すぎじゃね? そんなふうに懇願されたら断れないって」
「ていうか、そんなもん適当に塗れば良くない? ほかのクラスのやつらだって適当っしょ、そんなの」

 松本に続いて結城がそう言い、二人は気だるそうな顔を見せた。可奈子は、彼女たちからの言葉を聞いて、言い知れないほどの苛立ちを覚えた。はらわたが煮えくり返る、とでも言うのか、まさにそんな気分を実感した。両手の拳を固く握って、歯噛みし、必死に感情をおさえようとした。

「たかが文化祭で熱くなれんのって精神的にガキばっかだしね~だいたい」
「そうそう! 青春ってぇの? 柏木さんもたいへんだよねぇ、ほんとは内心じゃやりたくないって思ってんでしょ? でも看板のグループリーダーだもんね、イヤでもやる気ださないとね」

 結城と松本が交互に述べたそれに、可奈子はどこかで紐のようなものが切れる音を聞いた気がした。そして気付けば可奈子は、机に両手を叩きつけていた。じりじりと痛かったが、なんだかそんなことはどうでもいいように思えた。驚いた三人の顔がこちらを見ているが、可奈子はこれまでの怒りを吐き出した。

「あぁそうだよ。ほんとうは私だってこんなことやりたくない。でも誰かがやらないとどうにもならないんだよ。なのにどうしてあんたたちはそうやって、ぐだぐだ言うだけでなにもやってくれないの? どうして私ばっかりこんなに負担しなくちゃならないの?」

 途中から喉が締め付けられて、妙に甲高い声になってしまったが、可奈子は構わずに喋った。ぎゅっと胸が締め付けられるように痛んだ。目頭がとても熱かった。鼻の奥がツンとして、それも痛かった。ぼろぼろと涙を零して、瞬きをする度に少しだけ視界が鮮明になったが、すぐにぼやけてしまった。
 息が荒くなっていたけれど、震えた声のままで、怒鳴り続けた。

「ばかばかしい。すっごく腹がたつよ。もうみんないらないよ。どっか行ってよ。邪魔になるだけなんだからどっか行ってよ! 自分のしたいことしておいでよ。もう二度とここに戻ってこないで。私一人でやってたほうが気が楽なんだよ。ほら、出てってよ!」

 右手を振り上げ、扉のほうへ指差して、可奈子は叫んだ。泣いているせいで顔は真っ赤になって、涙のせいでぐしゃぐしゃになっていた。けれどそれも構わず、結城たちを睨み続けていた。
 可奈子のその剣幕に気おされたのか、結城と松本、そして酒井は互いに顔を見合わせて、居心地悪そうに立ち上がった。それから可奈子に睨まれながら、部屋を横切っていった。

「わけ分かんねぇし。逆ギレとかありえなくね?」
「じゃああとは柏木さん一人でやってよ。うちら先に帰るわ。ばいばい」

 部屋を出る間際に松本と結城は悪態をついていったが、可奈子は無視してその場にしゃがみ込んだ。
 短距離を全力疾走したかのように、ひどく呼吸が荒かった。今ごろになって両手のいやな痛みが思い出され、可奈子は両手の平をそうっと擦った。涙はなかなか止まらず、頬を伝い、顎を伝い、喉にまで流れていた。
 こんなに腹が立って、こんなふうに誰かを怒鳴りつけたのは初めてだった。どうして自分が泣いているのか、よく理解できていなかった。ただ、結城たちが言った無神経な言葉が癪に障ったのだ。
 看板を作るのに、手を抜いて適当にやればいいだなんて、ふざけているとしか思えなかった。みんなと協力してなにかを作り上げる行為を『ガキ』呼ばわりされて、どうしようもなく不快に思った。そして気付いたら、怒鳴っていた。

 時計の秒針も響かない室内は、とても静かだった。はやく着色作業にはいらなければ、という気持ちが可奈子のなかに沸き起こったが、どうしてか、動く気になれなかった。自分の今までの努力を結城たちに否定され、踏みにじられ、ばかにされたからだろうか。可奈子はとても悔しかった。しかしそれと同じくらいに、とても悲しかったし、ひどく落ち込んでいた。
 結局は自分から彼女たちを排除してしまったのだ。なんとか五人で看板を作りたいと願ったのに、結局、自分は逆ギレをして、彼女たちの機嫌を損ねて、一人になってしまった。こんなときに限って美咲はいない。今ごろ彼女は部活での出し物の準備をすすめているのだろう。けれど、こういうときくらいは、自分の傍にいてほしかった。
 不意に可奈子は、背後に気配を感じた。ずっと悶々と悩んでいたために気付けなかった。そっと後ろを振り向くと、そこには、なぜか酒井 朋子がいた。
 朋子は無表情のまま、ポケットから淡いピンク色のハンカチを取り出して、可奈子へと差し出してきた。一体どうしてここにいるんだろうか、と呆然とする可奈子の前にしゃがみ込み、手をとってハンカチを握らせた。

「ごめんね、柏木さん。ほんとは真衣と千佳も連れ戻すつもりだったんだけど、あの二人もちょっと今はあなたと顔合わせるのが気まずいみたいで。わたしだけ戻ってきたの」

 結城たちの名をだされたとき、可奈子は反射的にびくっとした。怯えているわけではなかった。ただ恐らくは、自分が一方的に怒鳴りつけてしまったために、それの罪意識のようなものからだろう。
 朋子から渡されたハンカチで涙を拭い、可奈子は声を出した。

「どうして」

 声に妙なクセがついてしまって、自分でもおかしいと感じるほど震えた声が発された。それでも朋子は笑うことなく、ちょっと伏し目がちに呟いた。

「さすがに、サボりすぎたよねって、あなたから言われて気付いたんだ。柏木さんたちがいつも一所懸命になって看板の作成をしてるのに、わたしたち、いつもぼーっとしてるだけでさ」

 言葉を区切って、朋子は黙った。そして数秒の沈黙のあとに続きを述べ始めた。

「真衣も千佳もね、反省してたみたい。もちろんわたしもだけど、ずっと手伝わなかったこと、ごめんなさいって。文化祭までもう時間ないけど、明日からはちゃんと手伝うからって。ほんとはあの子たち、自分の口から言うべきなんだけど、あなたがまた泣き出しちゃったら困るからって。でもわたしは、わざわざこれの伝言をするためだけに戻ってきたわけじゃないよ。
 もう今日の作業時間はあまりないけど、手伝うから。真面目に取り組むから、一緒にがんばろう」

 女の子らしい、優しい微笑みをされ、可奈子は自分の罪意識がすうっと薄らいだのを自覚した。彼女たちを怒鳴りつけたことは、結果的には悪いことじゃなかった。向こうにも非があったし、こちらにも非があったのだ。結局は、あいこだったのだ。
 可奈子は、朋子に笑いかけてみせた。それは泣きはらした後だったために、決してかわいい笑顔とは言えなかったが、それでもとても自然な笑顔だった。

「ありがとう」

 その日、可奈子と朋子は完成の5分の3ほどにまで近づけることができた。あとは背景と文字を塗り、看板の周囲に額縁にみたてた黒い紙テープを貼り、プラスティック板を装着し……まだまだ完成には遠いが、それでも二人の努力によって、どうにか終わりが見えた気がした。

 そして翌日。
 可奈子が早い時間に学校へ登校すると、同じクラスの人が数人きていた。それはいつものメンバーだけでなく、今日は違う人もいるようだった。自分の席にカバンを置いて、3階の美術準備室へ向かう。

「おはよー、柏木さん」

 扉を開けた途端に、可奈子はびっくりして立ち尽くした。看板の周りに三人、それも結城と松本、朋子がいたのだ。彼女たちは紙に描かれてあるサンプルの色を見ながら、丁寧に色を塗っていた。

「おは、おはよう。あの、三人とも、早いね」

 可奈子は驚きのあまり、なんと質問すればいいか思いつかなくて、適当にそう口にした。松本と結城は顔を見合わせ、それから朋子とも視線をかわして、三人は可奈子を見た。

「昨日、ごめんね、柏木さん」
「ガキはうちらだったっぽいから、ちょっと反省してさ」

 結城のあとに松本が言った。朋子は二人に気付かれないように可奈子へ笑って見せた。昨日言った通りでしょ、とでも言わんばかりの笑顔だったので、可奈子は苦笑に近い笑顔になった。

「でもさー、案外っつか、意外とこういうのも楽しいねー」

 黒のペンキをたっぷりと塗りたくりながら、結城が気楽に言った。それに同調して松本と朋子が頷いた。

「楽しいけど、色塗りってはみ出さないようにするのが大変だしね。よくここまで綺麗に塗れたよねー、柏木さんと金田さん、まじすげーんですけど」
「ここの部分は昨日わたしも手伝ったんだよ。うまくない? わたしたち塗りのプロじゃない?」

 昨日、可奈子と一緒に塗ったたこ焼きの台の部分を指しながら、朋子が自慢げに結城たちに笑いかけた。
 可奈子は三人のやり取りを見ていて、まるで昨日とは別の人たちが目の前にいるように感じた。けれど、彼女たちは元々悪い部分こそ目だってはいたが、実際悪い部分しかないわけじゃなかった。
 可奈子は基本的に人をそう簡単に嫌いになれないような性格をしていた。確かに苦手と感じる人こそいるが、嫌いにまではならないのだ。なぜなら、どんな人にも良い部分と悪い部分があることを知っていたから。たとえ相手のこの部分が嫌だなと感じても、相手の良い部分も知っているから、全てを嫌いになれない。良くも悪くも、相手の長所と短所を見つけることができたから。そのために可奈子は、今まで一度も誰かに対して怒りのあまり怒鳴ったことはないし、大きな喧嘩などもしたことがなかったのである。
 可奈子は今、彼女たちの良い部分を見つけられて、内心ではとても嬉しい気持ちを感じていた。人を嫌いになるということは、相手からも嫌われるということ。逆に、相手の良い部分を知るということは、少なくとも相手を嫌いにならずに済むということだから。

「柏木さんは見学っつか、休憩しててもいいよ。今までサボってた分、うちらちゃんと働くつもりだから」

 結城がそう進言してきたが、可奈子は首を振っておいた。ようやく彼女たちとの共同作業ができるというのに、どうして自分だけ休憩がとれるというのだろう。可奈子はとても大きな喜びを感じていた。

「私も手伝うよ。人手は多いほうがいいからさ」
「そう? じゃ、ホームルーム始まるまでにさっさとできるとこまでやっとこっか」
「あっ、真衣、ここ塗り残しあンじゃん。きれーに丁寧に塗んなよ」
「分かってるっつの」

 美術準備室内に、にぎやかな女子の声が弾けた。朝練を終えた吹奏楽部の部員が廊下を通過するときに、窓のところからちらちらと中を覗いていった。同階にある三年生の先輩方も、教室へ向かう道すがらに女子のはしゃぐ声のする美術準備室を一瞥して行ったりした。
 今朝以来すっかり結城たちと打ち解けた可奈子はその日の夕方にもまた、今度は美咲も含めて、五人で看板の色塗りを行った。最初美咲は、非協力的だった結城たちがどうしてちゃんと真面目に取り組んでいるのか怪訝に思っていたようだったが、可奈子がこっそりと事情を話すと、美咲もまた結城たちの誤解を解いたらしく、普通に接するようになった。

「真衣ちょっと、ここはみ出してんじゃん!」
「うわ、まじで? やばっ。ごめ、ちょ、どうすればいいのこれ」
「落ち着いて、松本さん。それくらいなら新聞紙でちょっとこすって色薄めて、その上から塗りなおせば修正きくから」
「まじで? 千佳ちょっと新聞紙! はやく!」
「そんなに焦らないでいいよ、ペンキってすぐに乾くわけじゃないからさ」
「でもせっかく綺麗に塗れてんのに、汚しちゃもったいないじゃん」

 にぎやかに会話を弾ませ、五人がかりでの着色作業はとても順調に進んで、残すところあとは文字のみというところまでとなった。それは可奈子も美咲も予想していなかったほどの速さだった。この分だともう明日に完成し、プラスティックで加工する作業までいけるだろう。
 今日はもうペンキを塗りたくったので、乾くのを待たなければ次の作業にはいけない。五人は美術準備室を後にし、教室にあったカバンを持ち、帰宅のために階下へと向かった。途中、2階の廊下でも1階の廊下でも同じように看板を作る作業をしている人たちをみかけ、彼らの進行状況を確認して、可奈子たちはこっそりと喜んだ。
 ほかのクラスの人たちの絵はまだ白い部分が多く残っていて、みんな慌てているらしかった。それに比べ、可奈子たちのほうは断然速い。
 ほかのクラスの看板部隊の健闘を祈り、下駄箱で靴を履き替え、可奈子たちが外に出ると、空は見事な夕焼け色となっていた。可奈子は久しぶりに、こんなに綺麗な夕焼け空を見た気がした。それは、いつもよりも帰宅の時間が早いためだった。空気はまだそこまで寒くはないが、ひんやりとした秋の始まりらしい寒さが可奈子たちの身を覆った。

「文化祭もうすぐなんだよね」

 校内から響いてくる様々な音――カナヅチで釘を打ちつける音や、合唱部の綺麗な歌声、吹奏楽部などの練習の音、体育館からはマイクのテストや、音響テストなどの音。演劇部、あるいは三年生の演劇の練習の声。誰かが誰かを大声で呼ぶ声、笑い声、走る音――を聴いていた美咲が、ぽつりと言った。
 4階の窓から下がる垂れ幕『文化部の展示はこちら』という宣伝の言葉がよく目立っていて、それが一層、美咲の言葉に現実味を与えていた。可奈子はなんとなく、自分の見ている光景や、聞いている音などが、一瞬現実のものなのか分からなくなった。
 もうすぐ文化祭。たった二日間だけ行われる、一大イベント。誰にとってもそうなのだ。一年に一度しかない大切な行事なのだ。高校は三年間あるから、ほんとうは三度訪れる。けれど、二年生の、『2年C組』というクラスで行われる文化祭は、これが最初で最後。一年生のときはクラスの出し物として、教室内を水族館状態にした。あれはあれで、楽しかった。でも今年は、クラスの出し物は屋台。来てくれた人たちに、できるだけ安い値段で美味しいものを食べてもらう。そして来年は……まだ、分からないけれど、それぞれ違うことをやるのだ。
 物思いにふけっていた可奈子は、朋子に肩を軽く叩かれるまで、ずっと校舎を眺めていた。

「かっしー、どしたの、ぼーっとして?」
「かっしー?」

 可奈子のことを『かっしー』と呼んだ朋子に反応したのは、美咲だった。朋子はニッと笑って、「あだ名だよ」と言った。今までずっと「柏木さん」と名字に敬称つきだったのに、なぜいきなりあだ名で呼んだのだろうか。
 不思議に思う可奈子だが、その質問をする前に朋子は今度は美咲のほうを向いた。

「あなたのも考えたんだ。みさきちさん」
「みさき、ち? えぇーなんか小学生みたいじゃん?」
「いいのいいの。よく言うじゃん、あだ名は友情の始まりってね」

 朋子は恥ずかしげもなくそう言って、「ねえかっしー?」と可奈子の肩に腕をまわしてきた。少しの戸惑いもあったが、可奈子は純粋に嬉しくて、「そうだね」と頷いた。
 美咲は可奈子のその反応が意外だったようで、目を見開いたが、すぐに諦めたように溜め息を吐いていた。

「ま、いいけっどね~。でも、朋っちゃんはなんで、まっつんとゆうきちのことはあだ名で呼ばないの?」

 あだ名をつけられたことに対して文句を言ったわりには、美咲は早速朋子たちのことをあだ名で呼んだ。それでも朋子たちはすぐに順応すると三人は小さく笑った。

「うちら、じつは幼稚園からの腐れ縁でさ。だから今さらあだ名なんて面倒でつけらんねぇの」
「家が近いってのもあるんだけどね。なんか知らないけど、千佳と私は幼稚園から高2まで、クラスが別々だったことって3回くらいしかなくってね。朋子とは結構別れることあったんだけど。ほんとこれなんなのかね、千佳の呪いじゃね?」
「はあ? ちげーし。つかあたしじゃなくて真衣の呪いだし絶対」

 口悪く言い合いを始めた二人だが、その顔は至って笑顔のままだった。しかしそれにしたって、幼稚園から今までクラスが離れたのが三回だけというのは、本当にすごいことだと可奈子は感心していた。
 真衣と千佳の間に割って入り、朋子が「わたしのために喧嘩はやめて」と叫ぶと、どっと笑いが溢れた。

「いつあたしらが朋子争奪の喧嘩始めたよ? あーもう、おっかしくて腹いてぇ」
「ほんとだよ。つか、笑ったらお腹空いたんですけど。朋子のせいで」
「じゃあちょっと一軒、寄ってく?」
「なんで居酒屋行くみたいな口調になるんだよ。もう、お前ちょ、黙っといて」

 腹を抱えて笑い転げる真衣と千佳。美咲も可奈子もつられてしまい、思いきり笑った。
 夕焼けが徐々に暗くなって、一番星も照りはじめた。可奈子は笑顔で溢れるこの場を見回し、みんなの顔を見渡して、心の底から本当に楽しいと感じた。

 目前に控えた文化祭は、きっと成功するだろう。
 可奈子はそう確信していた。そして、来年もしクラスが別々になってしまっても、この人たちとなら、交流を続けられるかもしれない。……こちらの保証はどこにもないけれど。

 秋の始まりの涼やかな夜闇のなかを、可奈子たちはにぎやかに歩いて行く。朋子は意外にも漫才師的ボケをかませるということを知った可奈子だが、千佳と真衣との絶妙なやり取りに、ほんとうにお腹がよじれるかと思うほどだった。
 友達同士で笑いあえることが、こんなに楽しいなんて、可奈子は初めて知った。可奈子は元来大人しいタイプの人間だったので、こんなふうに明るく元気のいいタイプの人と笑いあったことがなかったために、なおさらだった。

「あっ。そうだ」
「どした?」
「朋ちゃんに借りてたハンカチ……ちゃんと洗濯したから、返すね」
「いいよ」

 可奈子がふいにそれを思い出して、ポケットからハンカチを取り出そうとするも、朋子はそれを止めた。なにがいいのか、首をかしげた可奈子へ、朋子は笑いかけてくれた。

「それあげるよ。まあ、厳密には違うけど、そのハンカチのお陰でかっしーたちと仲良くなれたんだし。友情の証ってことで取っといて」
「うわー。朋子ってほんとすげーわ。んな事照れもしないで言えるのって、漫画のキャラクターとあんたくらいしかいないよ」

 千佳に煽られたが、朋子はそれでも照れることなく「褒め言葉ありがと」と軽く受け流していた。可奈子は呆気にとられながらも、朋子の大らかな性格に、人知れず微笑んだ。

 どうか来年も、こんなふうに笑いあえますように。
 空の一番星に、可奈子はそう願いを捧げた。


28/Dec/2007

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